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忠臣蔵 なぜ吉良上野介は死んだのか?!

年末はやっぱり、忠臣蔵ですね~。

浅野内匠頭に忠義を尽くした、大石内蔵助をはじめ、47人の仇討ちは当時の江戸で大変話題となりました。

では、タイトルにもどりましょう。

なぜ吉良上野介は死んだのか?!

あなたの答えは『浅野家家臣の47人に仇討ちされて死んだんでしょう!』ではないでしょうか?

もちろんそうです。

ただ、この忠臣蔵の仇討ちに至までの、経緯に現代社会にも通じるポイントがあります。

あの時、浅野内匠頭への幕府の対応が違っていれば、もしかしたら、吉良上野介も死なずにすんだかもしれません。

そのポイントとは…

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ずばり、幕府の説明責任が十分果たされていいなかったことです。

以前、亀田選手の謝罪会見の記事でも書きましたが、今、企業の説明責任が大きく問われる時代となっています。

亀田興毅選手の謝罪会見の記事

それは、現代だけでなく、江戸時代の忠臣蔵にも影響しているのではないかと私は思っています。

元禄14年3月14日、江戸城中松の廊下にて、浅野内匠頭は上野介に刃傷に及びます。

幕府にとって重大な式典の最中に起こったこの事件は、将軍綱吉の逆鱗にふれます。

そして、将軍綱吉の命で幕府が下したのは、詮議もそこそこに、浅野内匠頭は即日切腹、浅野家は取り潰し、一方、吉良上野介はお構いなしというものでした。

ケンカ両成敗というのは当低当てはまるような処分ではなかったのです。

処分が厳しいのにたいして、その処分に至るまでの説明が十分ではない。

この処分がのちのち、忠臣蔵で有名な仇討ちへと続くきっかけとなります。

そして、運命の日。

大石内蔵助らによって、吉良上野介は葬り去られ、その後、浅野家家臣47人は切腹、吉良家はお家お取り潰しとなりました。

もし、もっと十分両者の意見を聞き、公平にケンカ両成敗で、幕府が十分に両者の意見を聞き、処分していたら。

浅野家家臣にも処分の理由を十分に伝えていたら。

例え、浅野内匠が切腹になったとしても忠臣蔵の仇討ちとなったでしょうか?

吉良上野介も死ぬことものなく、吉良家もお取り潰しにならなくても済んだかもしれませんね。

幕府の説明責任が歴史を変えたのかもしれませんね。


「Photo by.空色地図」

p.s
よいお年を

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